闇は暁を求めて–評伝ファン・ゴッホ
第1話 南フランス・プロヴァンス県アルル、1888年2月下旬
1888年(明治21年)2月21日の昼下がり、パリからきた汽車からひとりの男が雪に埋もれたアルルの駅におり立った。(中略)わびしい田舎駅である。
雪はたえまなく降り積もり、ローヌ川の谷おろしの風は仮借なく吹きつのり、しみとおる寒さをはこんで、動く人影のないこごえきった光景である。(『ゴッホ 星への旅』上)
ヴィンセントは1888年2月20日、アルルに着いた。ローヌ川に臨むこの古い都市はローマ帝国の重要な前哨地点で、コンスタンティヌス大帝の宮殿があったところである。(『ゴッホ この世の旅人』)
フィンセント・ファン・ゴッホが1888年2月にパリを去ったのは、自分が同地で描いた作品に不満を抱いたからではなかったでしょう。フィンセント自身がパリに嫌悪を感じたことはまったくありませんでした。
パリを去った後で書いた最初の手紙には、こうあります。
体力を回復し、平静と均衡をとり戻す隠れ家がなければ、パリで仕事をすることはまず不可能ではあるまいか。( 弟テオ宛書簡463)
気候がフィンセントをパリから去らせた原因であったに違いありません。1887年から翌年にかけての冬はとてつもなく厳しいものであったのです。
パリでも寒さがゆるめばきみも暮らしいいだろう。じっさい何という冬だ。(書簡467)
われらが友『ラントランジャン』紙によればきみのいるパリでは大雪が積もったらしいね。(書簡470)
いまは何日かひどく苦しい日があるが、別だん気にしてはいない。結局この冬の反動なのだ。この冬は異常だったからね。(書簡474)
けれども、パリの過酷な自然以上の理由がありました。パリでの生活が心理的にも身体的にもフィンセントを傷つけていたことは疑いもありませんでした。部分的には酒のせいでもあります。フィンセントはアブサン酒については触れてはいませんが。
とはいっても、パリにいるときよりは調子がいい、胃はひどく弱くなったけれども、それは大体はそちらにいたとき、悪葡萄酒を飲みすぎたために貰って来た痛みだ。(書簡480)
フィンセントはパリを捨てて南仏のアルルに旅立ちました。アルルを理想の国日本に見立てていたのです。
ともあれ、フィンセントは芸術の都パリを捨て、「日本の浮世絵にあるような明るい光」を求めて、あるるへと旅立った。(中略)アルルには雪が降っていた。その風景をひとめ見ただけでフィンセントの心は踊った。雪のなかに白い頂きを見せるその風景は「まるで日本の画家が描いた冬景色のようだった」から。(『燃え上がる色彩 ゴッホ』)